『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
1971年、丸山明宏から美輪明宏に改名。女優引退宣言をし、舞台を離れ歌手活動に専念し始める。銀巴里やジァンジァンでのライヴや全国各地でのリサイタルを精力的に行い、『白呪』等のアルバムも多数発表した。また男性役では映画(1977年
井上ひさし原作『日本人のへそ』)やドラマ(1976年『さくらの唄』)に出演している。
1978年『枯葉の寝床』(原作 森茉莉)で舞台活動を再開するが、この頃より呼吸器系に持病を抱える様になる。俳優、歌手活動に支障をきたしはじめ、トークショー等のテレビ出演を控えるようになる。しかしその後も演劇では1979年にエディット・ピアフの生涯を描いた、自作自演となる『愛の讃歌』の初演。1983年の『毛皮のマリー』『青森県のせむし男』の再演。さらに1984年には『双頭の鷲』を再演するが、体調は悪化する一方で1985年の『大典礼』(原作・演出
フェルナンド・アラバール)を最後に1993年の『黒蜥蜴』再演まで再び舞台から降りる事となった。
歌手としては1984年にパリで、1987年にはパリ、マドリッド、シュトゥットガルトでリサイタルを行いル・モンド、リベラシオンを始め多数の新聞・雑誌に紹介・絶賛された。また1986年からは現在も続くPARCO劇場でのロングリサイタルが始まり、それ以外にも全国各地でのリサイタル公演を行い、舞台に立てなくなったのちも切れ目なく活動を続けた。
1990年、東京芸術劇場の柿落とし公演『マリー・ローランサン』を演出。この時既に『黒蜥蜴』再演の企画は持ち上がっていたが、美輪の体調面から断念している。またこの年、40年近く唄い続けて来た銀巴里が閉店となり、美輪は最後の日の「さよならコンサート」で自ら作詞作曲した「いとしの銀巴里」を涙ながらに歌いあげた。この模様を各メディアは挙って大きく報じ、また翌年の映画『黒蜥蜴』のニューヨークでのヒットなども重なり、この頃から美輪が言う「メケメケ、よいとまけ、黒蜥蜴に続く四回目のブーム」の時期が訪れ、テレビやCM等への出演が増え、リサイタルのチケットも入手しづらい状況になって来る。
黒蜥蜴再演以降
1993年、85年の「大典礼」以来舞台に立てない程に悪化していた持病が前年に奇跡的に完治した事を受け、24年ぶりに待望の『黒蜥蜴』を再演。前売りのチケットは発売日当日に完売するなど世間の注目を集めた。またこの再演時には自ら主演、演出、美術、衣装、選曲を担当し、以降上演される舞台は1994年、1996年の「毛皮のマリー」以外、全て主演する美輪自身の演出となり、多くの場合
美術・衣装・選曲も務め、脚本・振り付け(美輪明宏版 椿姫)原作(愛の讃歌)を兼ねた作品もある。
『黒蜥蜴』の再演は93年以来1994年、1997年、2003年、2005年と続けられている。
1994年には『毛皮のマリー』を海外から演出、照明、音楽など当代一流のスタッフを招き再演し、話題になる。この劇場側が用意した形式は1996年の再演時にも引き継がれるが美輪曰く「演出があんまりひどい時は私が手直しした」そうで、結局2001年の再演では自ら初演出する事となる。キャストも美少女を含め全員男性で演じる本来の形式に戻され、決定版と言える公演となった。
1996年三島由紀夫が30年来熱望していた美輪演出・主演による『近代能楽集より 葵上・卒塔婆小町』をついに上演。三島を歓喜させた当初のプラン通り、ダリと尾形光琳を取り入れた舞台デザイン(葵上)や99歳の老婆から19歳の美女への早替り(卒塔婆小町)など趣向を凝らした舞台となる。また、その年の秋には『愛の讃歌』を17年ぶりに再演した。
1997年、13年ぶりの『双頭の鷲』再演で読売演劇大賞優秀賞を受賞。 映画『もののけ姫』出演では東京スポーツ新聞社主催映画大賞(審査委員長
北野武)助演男優賞を受賞する。
1998年には再び『葵上・卒塔婆小町』を上演、秋にはデュマ・フィス原作「美輪明宏版 椿姫」を30年ぶりに上演し、いずれも好評を博す。この年2本の芝居を上演したのを最後に翌年の『双頭の鷲』以降、舞台作品は年1本の上演ペースとなる。一方、美輪が舞台活動を再開した93年以降、芝居のスケジュールとの調整が必要となり公演が無い年(96、97年)もあったPARCO劇場でのロングリサイタルは98年以降「音楽会」と名を改め、毎年行われる様になり、以来美輪のステージは春先の芝居、秋の音楽会で定着し、現在に至っている。
2000年、銀巴里閉店後、唯一のライヴ活動の場となっていたジァンジァンが閉場となり、2000年3月29日が美輪のジァンジァンにおけるラストライヴとなった(閉場は2000年4月25日)。
人柄
かつて実家が料亭やカフェ、銭湯など手広く経営しており、美輪はそれらの場を遊び場として育った。そして、そこでボーイや女給、客達により繰り広げられる様々な人生模様を見る内、人を見る目が自然に養われたという。
本人曰く「天草四郎ならびに神功皇后の生まれ変わり」であるという。またフランス公演の際、インタビュー中「私の前世はサラ・ベルナール」と発言し現地の記者から喝采を浴びたと言う。
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